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鹿児島地方裁判所 平成元年(わ)306号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

一  本件公訴事実のうち、主位的訴因は「被告人は、平成元年一月三〇日午前一〇時五八分ころ、業務として大型貨物自動車を運転し、鹿児島市東開町一番地付近道路を同市宇宿二丁目方面から同市南栄一丁目方面に向かい進行するにあたり、前方左右を注視し、進路の安全を確認して進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、右側車線を自車と並走する大型貨物自動車に気を取られ、左前方の安全を確認しないまま漫然時速約四〇キロメートルで進行した過失により、折から自車左側方を進行中のA(当時六一年)運転の原動機付自転車が自車左前部に接触して転倒したのに気付かず、自車左後輪で同人の胸腹部を轢過し、よって、同人に胸腹部内臓破裂、左助骨、腰椎骨盤粉砕骨折等の傷害を負わせ、前記日時場所において同人を右傷害により死亡するに至らせた」というものであり、予備的訴因は、被告人は、主位的訴因の状況のもとで自車を進行させるにあたり「自車と左側歩道との間に約一メートルの通行余地があり、同通行余地を二輪車等が走行することが十分予測できたのであるから、自車の左側方の安全をサイドミラー等により確認して進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、右側車線を自車と並走する大型貨物自動車にのみ気をとられ、左側方の安全を確認しないまま漫然時速約四〇キロメートルで進行した過失により、折から自車左前方を進行中のA(当時六一年)運転の原動機付自転車に自車を接近させ、自車左側前部を同車に接触させて転倒させ」同人に対して主位的訴因のとおりの傷害を負わせ死亡させたというものであるところ、当裁判所は、主位的訴因、予備的訴因いずれについても被告人には過失は認められず、被告人は無罪であると判断したので、以下その理由を述べておくこととする。

二  本件事故の態様等について

証拠によれば、次の事実を認めることができる。

1  本件事故当時、被告人は、大型特殊貨物自動車(いわゆるコンクリートミキサー車である。以下、被告人車両と言う。)を運転して、鹿児島市東開町一番地付近道路を同市宇宿二丁目方面から同市南栄一丁目方面に向かって進行していたが、本件事故現場手前の交差点にさしかかった際、対面信号が赤色を示したので、別紙1の番号(以下、別紙1の各地点は単に番号のみで示す)〈1〉の地点に信号待ちのため前車に続いて停止した。被告人が停止していた道路は別紙1のとおり、四車線に区分され、歩道側から数えて第一車線が左折専用車線、第二、第三車線が直進専用車線、第四車線が右折専用車線であり、被告人は直進のため第二車線に停止し、被告人車両の前には二台位の自動車が、左折専用車線にも数台の自動車が同様に信号待ちのため停止していた。

2  被告人は、やがて対面信号が青色を示したので前車に続いて自車を発進させたが、被告人が進行していた道路は、別紙1のとおり、交差点を過ぎると車線が二車線に減少し、被告人の走行車線はすこし左に曲がって交差点先の第一車線に続いていたため、被告人は〈3〉の地点からハンドルを少し左に切りつつ〈4〉の地点で左側バックミラーを使って左後方の道路状況を確認したが、二輪車などの姿は見えなかったのでそのまま進行し、〈4〉の地点を過ぎて〈5〉の地点に至る間で再びハンドルを右に戻しつつ自車の走行車線にそって進行を続けたが、その際自車の右側車線に大型冷凍車が並進していたので、〈4〉の地点から〈5〉の地点を進行する間右側バックミラーを使って右後方を注意しつつ進行したため、左前方は注視していなかった。

3  そして、被告人車両は〈6〉の地点あたりで自車前部の左側方を並進していた被害者運転の原動機付自転車(以下、被害車両と言う。)と接触したが、被告人はこれに気付かずに進行を続け、〈7〉の地点で自車後輪がバウンドした感じがしたため、〈8〉の地点で左側バックミラーで左後方を確認したところ、被害者車両が転倒していたので事故に気付き、〈9〉の地点で停止した。

4  ところで、被告人が走行していた道路の状況は別紙1のとおりであり、道路の左側方には約一・一メートルの幅の路側帯が続き、交差点の中には二輪車専用の通行帯が設けられ、前記路側帯は交差点の入口と出口において右の二輪車専用の通行帯に繋がっている。

5  また、事故後の検分によれば、被害車両右側のハンドルグリップには、後方から前方に向かって押しつけた形状の接触擦過痕があり、一方被告人車両の前部バンパー左側には、被害車両の右接触擦過痕のあるハンドルグリップとほぼ同じ高さの位置に擦過痕がある。

6  被告人車両に取り付けてある各種ミラーの状況を見ると、車両左側には、車両の前下部を見るためのアンダーミラー、運転席の左側方を見るためのサイドミラー、車両左後方を見るためのバックミラーがそれぞれ取り付けられているが、サイドミラー及びバックミラーによって見ることのできる被告人車両左側方・後方の視界の範囲は、別紙2のとおり、車両後方については末広がりに広がっているものの、運転席左方は約二・二メートルまでであり、サイドミラーとバックミラーの視界の繋がるところでは範囲が狭まっているから、被告人車両の左側には右各ミラーによっても見ることのできない領域があると認められる。

三  主位的訴因について

1  主位的訴因において検察官が主張する被告人の過失は、いわゆる前方注視義務違反である。

そこで検討すると、前記認定のとおり、被告人は〈4〉の地点から〈5〉の地点の間を走行する間、自車の右側車線を並進していた大型貨物自動車に気をとられて、自車の前方左右に対する注視を怠っていたと認められるから、本件被告人には、前方注視義務の違反があったことはこれを認めることができる。

2  ところで、右の前方注視義務違反につき被告人に過失責任を問うためには、被告人が前方注視義務を果たしていれば、被害車両との接触を避けることができたか、あるいは、接触を避けることができないまでも、被告人車両と接触して転倒した被害者を轢過することを避けることができたという関係、すなわち前方注視義務違反と被害車両との接触あるいは被害者の死亡(以下、被害車両との接触と被害者の死亡とを併せて本件事故という。)との間に因果関係が認められなければならないことは言うまでもない。そして、右の因果関係が認められる前提としては、本件事故当時、被害車両あるいは転倒した被害者が被告人の前方注視義務の及ぶ範囲にいたことが必要であると解される。

3  検察官は、被害車両は本件事故前被告人車両の左前方を進行していたものであって、本件事故は、被告人車両が被害車両を追い上げる形になって生じたものであると主張し、これに対し被告人は、被害車両が自車の前方を進行していたかどうかについては全く気がつかなかったと供述する。仮に検察官主張のとおり、本件事故が、被告人車両が被害車両を追い上げてこれと接触して発生したものとすれば、被害車両は被告人の前方注視義務の及ぶ範囲にいたものと認められるから、本件事故と被告人の前方注視義務違反との間に因果関係を認めることができる。

そこで、果たして検察官主張のとおり、被害車両が被告人車両の前方を進行していたか否か検討する。

(一)  前記認定の被害車両右側のハンドルグリップ及び被告人車両前部左側バンパーの各接触擦過痕の存在に警察技師迫田和己作成の鑑定書及び証人迫田和己の証言によれば、右各接触擦過痕は被害車両と被告人車両とが接触した際に形成されたものと認められ、また車両が接触した瞬間には、被告人車両の力が、被害車両の後方から前方へ向かって働いたことを認めることができる。

(二)  また、本件事故の態様によれば、本件事故前被害車両は被告人車両と同様に信号待ちのために停止していたものと推認することができるが、その被害車両の停止位置について考えてみると、二輪車は通常信号待ちの場合交差点の前方に停止することが多いから、本件の場合にも、被害車両は交差点手前の停止線付近で信号待ちをしていた可能性が高く、一方被告人車両は前記のとおり車二台分位停止線から後方に停止していたものであるから、信号待ちの際には、被害車両のほうが被告人車両よりも前方に停止していた可能性が高い。

(三)  また前記認定のとおり、被告人が〈4〉の地点においてバックミラーで自車左後方を確認した時には、自車左後方には被害車両の姿はなかった。

以上の各事実を併せ考えると、本件事故前被害車両が被告人車両の前方を走行していた可能性はこれを否定できないところである。

4  しかしながら、先ず前記の各接触擦過痕についてみると、証人迫田和己の証言によれば、右のような接触擦過痕ができるのは、被告人車両が被害車両を追い上げてその後方からこれに接触した場合ばかりでなく、逆に被害車両が被告人車両を後方から追い上げてきて並進しその後被告人車両がスピードを上げたか被害車両がスピードを緩めた瞬間に接触した場合にも形成されうるものであると認められ、そのほか並進していた被害車両がハンドルを右に振って被告人車両と接触した場合にも形成されうるものと考えられるところである。そうすると、被害車両の右接触擦過痕のみによっては、本件事故前被害車両が被告人車両の前方を走行していたものと断定することはできない。

次に、信号待ちの際被害車両が被告人車両より前方に停止していた可能性が高いことについては、仮に被害車両が交差点手前の路側帯の先頭に停止していたとすれば、本件当時左折専用車線にも数台の自動車が停止して信号待ちをしていたのであるから、被害車両は左折車両が左折をすませてから直進を始めた可能性も十分であって、そうすると、被告人車両がすでに〈4〉の地点に差し掛かった後に被害車両が発進し、被告人車両の後方から進行してきたとも考えられるのであるから、信号待ちの際の両車の右位置関係から本件事故前に被害車両が被告人車両の前方を走行していたと断ずることもできない。

また、被告人が〈4〉の地点でバックミラーを使って自車左側方・後方を見た時には、被害車両の姿は見えなかった点については、被告人車両の左バックミラー及びサイドミラーによって見ることのできる車両の左側方・後方の視界の範囲は、前記のとおり運転席左方では約二・二メートルまでであるところ、被告人が左側方を確認した〈4〉の地点は、別紙1のとおり、車線左側に二輪車専用の車線が走っており、被告人車両と右二輪車専用車線の左側との間の距離は別紙1のとおり約三・五メートルあることが認められるから、〈4〉の地点を進行していた被告人がミラーで左側方・後方を確認したとしても被害車両の姿を現認することはできなかったことも十分考えられることである。そうすると、被告人が〈4〉の地点で自車の左側方・後方に被害車両の姿がなかったことから、ひるがえって、そのとき被害車両は被告人車両の前方を進行していたとまで認めることはできない。

以上検討してきたところによれば、前記の各点のいずれも、これをもって本件事故前に被害車両が被告人車両の前方を走行していたことを認めるに足りる証拠と言うことができず、本件事故前被害車両が被告人車両の前方を走行していたとの検察官の主張を認めるにはなお合理的な疑いがのこると言わざるを得ない。

5  その他本件各証拠を検討してみても、本件事故前の被害車両の走行位置についてこれを認めるに足りる証拠がなく、結局被害車両の位置についてはこれを不明であるといわざるを得ない。そうすると本件の場合、被告人の前方注視義務違反と本件事故との間に因果関係を認めることができないから、主位的訴因について、被告人は無罪であることとなる。

四  予備的訴因について

次に、検察官は予備的訴因として、主位的訴因の状況のもとで、被告人には自車の左側方に対する注意義務があったと主張する。本件事故前の被害車両の位置は、前記のとおり、これをいずれとも認めるに足りる証拠はないが、本件事故の直前には被害車両は被告人車両左前部の側方を並進していたことは明らかであるから、本件事故の直前に被告人が左のバックミラーで自車の左側方を確認すれば被害車両を発見することができ、これとの接触を回避する措置をとりうる可能性があったと認められるので、被告人の側方注意義務の有無について検討する。

1  先ず検察官は本件被告人に側方注意義務が発生する前提となる事実として、被告人が走行していた車線と左側歩道との間に約一メートルの通行余地があり、同通行余地を二輪車等が走行することが十分予測できたことを指摘する。

しかし、側方注意義務が発生するのは、自車を左折あるいは右折させる場合または自車を従来の進路から左あるいは右に寄せて進行しようとする場合が典型であり、そのほか、自車前方を走行している二輪車等の側方を追抜きあるいは追越しする場合にも側方注意義務が発生すると考えられるが、そのような状況がなく、単に自車を直進進行させているにすぎない場合には、運転者としては、自車後方などから進行してきて自車と並進するにいたった車両については、原則としてその車両の運転者が自車との接触・衝突など生じないような安全な方法で進行してくれることを信頼すれば足りるのであって、運転者が単に自車の側方を二輪車などが通行することを抽象的に予測していたとしても、そのことから直ちに側方注意義務は発生しないと言うべきである。そうすると、検察官の主張する前記事実は被告人の側方注意義務を発生させる根拠となる事実としては不十分なものと言わざるを得ない。

2  そして、本件の場合、前記認定の本件事故前後の状況によれば、被告人は自車を左折させようとしていたものでも、また左へ幅寄せしようとしていたとも認められず、単に自車を進路にそって直進進行させていたに過ぎないのであり、また本件事故前被害車両が被告人車両の前方を走行していたとも認めることができないこと前示のとおりであるから、原則として被告人に側方注意義務は発生しない場合であったと言うことができる。

ただ本件の場合、前記認定のとおり、被告人は〈3〉の地点から〈4〉の地点あたりを走行する間、左側へハンドルを切って自車を左へ寄せつつ進行したのであるから、これを側方注意義務発生の根拠となる左への幅寄せと認めて被告人に側方注意義務を発生せしめることができないかという疑問もあるので、この点について付言しておくと、本件の場合被告人が自車を左側へ寄せて進行させたのは、別紙1のとおり、自車の走行している車線自体が、若干左へ曲がりながら交差点先に続いていたからであって、いわば従来の走行車線上を走行するために自車を左へ寄せながら進行したものである。そして、一般に直進車両が左へわん曲する走行車線にそって進行する場合、車両自体は従来の位置から左へ寄った位置へ移動せざるをえないのであるが、そのことによって後方から進行してくる車両との接触等が生じる具体的危険が認められる状況がなく、単に自車を車線にそって進行させるにすぎない場合においては、そのことから自車の左側方の安全を確認すべき注意義務が生じるとは考えられない。そして、本件の場合、前記認定のとおり、被告人走行の車線とその左側の歩道との間には、約一・一メートルの幅の路側帯(検察官のいうところの通行余地である。)があり、証拠によれば、被害車両の車幅は約〇・六四メートルであるから、右路側帯は被害車両程度の二輪車であれば十分通行が可能な間隔を持つものであって、その様な路側帯の横の車線を進行している車両の運転者としては、車線に沿って左へ寄りながら進行する場合においても、自車を車線から左へ逸脱させるような進行をしない限り、直ちに自車の左側方に対する注意義務が発生するとは認めることができず、本件の場合、証拠によれば、本件事故が発生した〈6〉の地点は、被告人走行車線の内側であり、そうすると、被告人は自車の走行車線を逸脱するような進行をしてはいなかったものであるから、被告人に側方注意義務を科すことはできないというべきである。

3  そうすると、本件では、被告人に側方注意義務を科すべき根拠に欠けると言わざるを得ないから、側方注意義務の存在を前提とする予備的訴因についても、被告人は無罪であることとなる。

五  以上のとおり、本件各公訴事実については犯罪の証明がないことになるから、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡しをする。

(裁判官 坂梨 喬)

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